短編 「やさしい雨」


 深い峡谷をはさむ山には、やさしい雨がふっている。
やまない雨はないというけれど、この国の雨はいつだってやんだことがなかった。

 朝日をあびようとカーテンをあければ、雨。船に信号を送ろうと煙突にのぼれば 雨。ひつじの様子を見にいっても雨。カーテンをひいても雨があって
わたしたちはそういうところで生きていた。

 彼は、深い深い峡谷をはさんだ反対側にすんでいて 毎日はたを織っていた。
きっとんとん、ききっとんとん、というかろやかな音がきこえていて、ふつう反対だよね と思った。
 
 そこは虹の帯が舞っている。真綿のようにすきとおり、ささやかな煌めきのパウダーを知ったそれは、まるで嘘のように空をおよいだ。
彼はそれを赤ん坊を抱くようにすくいとり、何ごともなかったかのように織ってゆく。

 完成すれば、どんなプリンセスでも纏えないような光り輝く衣になっていた。彼はそれを、峡谷に捨てた。やさしい雨がふっていた。

「」

 わたしたちは嵐の夜がちかづくと、人目を盗んでこっそりと会う。
あまりにひそやかで、声を出せば空気がビリビリと破れてしまいそうだった。

 そこはなにの音もきこえない。
ただ闇があり、雨があった。ここはいつだってそうだから、もはやそういうことの数々があたりまえになっていた。

うっすらと、まばたき。絡んだ視線が、からりと落ちた。
言葉のかわりに線のような息があいだを埋めて、わたしたちは同時に「あぁ、しにそう。」と思う。

根拠のない君の存在自体が、狂いそうに好きだよ。と語る彼の表情は、うれしいとも哀しいともつかなかった。
わたしは 彼の大きな背中を抱きながら、昔飼ったハムスターの小さな心臓のことを想っていた。

 朝、目がさめると香ばしい珈琲の香りに朝日がやさしいきもちにしてくれる、というのを絵本で読んだことがある。
ここには朝日なんかみえないけれど、雨はいつだってやさしかった。

いつ目がさめてもいつ目を閉じても、そとはいつだって雨だったから。
今がいつなんて、考えなくてもいいくらいやさしい雨は、いつだってふっていたから。

 天使のようなハミングが聴こえる。

やさしい雨は心臓をぶんづかまれて呼吸を止めて、雨はあがった。刈りとったばかりの草におりたった天使は、この世のものではない顔をしていた。わたしたちの定義には存在しないもので、この世界と交わろうとしていた。

 声を出そうとしてもだめだったから、ここで死ぬと思った。ひつじは、なにもわからないというような目でわたしをみていた。

ひつじを羨ましいと思った。しのうと思えるときにそうできるから。
今がいつだってわからなくても、幸せと思えるから。
涙がでた。

命が終わろうとしていることより、彼が峡谷に衣を捨てることがいやだった。嵐の夜はもう少し、つよく抱きしめてほしかった。
走馬灯なんて流れてなくて、麻酔もないなら せめて、雨だけでもふってよと思った。

眼球からとけそう
 天使は、肉片をぶちまけたような顔とは裏腹に、それほどやさしく、声を出したら割れてしまいそうなガラスの膜さながらに 
すきとおった声をはいた。

 力がぬけ、涙はいつのまにか乾いていた。
心臓を動かした雨は、いつくしむようにわたしを抱き、峡谷の向こうからは、きっとんとん ききっとんとんとはたを織る音が、絶え間なくつづいていた。

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