短編「真夜中のタイトル」
記憶がさんざん迷子になって、昨日のこともわたしは思いだせない。
やっと思いだしたら幼稚園のことだったり、まだしらないはずの時間のことだったりする。
それでもゆいいつ信用できたのはいぬで、名前はサトウさんだった。人の名前にしておけば、わからなくなったときに助けてもらえると思っていた。
いぬは毎朝わたしが起きるのをわすれないようにしてくれたし、嫌いなものはみずから食べてくれた。とてもやさしい利口な犬だった。
わたしはこのころよくサーカスのテントに通っていた。ここは道もそんなに遠くなかったし、そのなかには教会がかくれていたから。
教会のなかでわたしは祈る。祈りかたなんてとっくに忘れてしまったけれど、ひたすら祈る。祈りのパワーはわたしの内側からぼこぼこと沸騰して、脳天を貫きそうなくらい湧きたっていた。
「どうか 忘れませんように」
きょうのことを。そして昨日のことを。たくさんのうれしいことや、かなしいことを。
さんざん願ったらのどがかわいてそのまま湖にいく。このコースだけは、なんだか体がおぼえてるようだった。
カンカン照りだった外はいつのまにかつめたくしめっていて、雨特有の野性的な匂いが、そこらじゅうに立ちこめていた。
ジャングルみたい。
ここにきたら、サトウさんはなんて思うかしら。あのこは利口だから電話でもしたらきてくれるかもしれない。そう思って、ポケットに手をかけた。でも、その必要はなかった。
「まだ 気にしていますか」
「ええ」
「溺死したことを。まだ、おぼえているのですか」
「いじわるをいわないでください」
ヒゲの毛むくじゃらの男はこの教会の守り人で、わたしはまいにちここにこなくてはならなかった。きょうのことを忘れないように。昨日のことを、みずうみのことを、忘れないように。
「さあ きょう思いつく、限りのことばを吐き出しなさいそうすれば、らくになれます」
はいと口をついておちたことばは、あまりにもしずかでみずうみにひとり取り残されたウジ虫のようだった。
「灰色のパンケーキ。窓。電球。タトゥー。雨」
「それだけですか」
「はい」
じめじめとしていた。あまりに重苦しくて、内臓から吐き出しそうだった。
とおくのほうで、雷鳴。光ってからかぞえて、段々早くなっていった。
「まだ」
光。
つぎがくる。静かに息をした。
いち、に、さん、
あるでしょう、と叫んだ男の声と、同時になった雷鳴は、地の底から響くようだった。
頭が上のほうからつめたくなっていったのがわかる。わたしはすっかり、もうどうしようもなかった。
「いやです。ありません、なにも、ありません」
「あるはずです。こたえなさい。でないとあなたは」
「ありません」
「聞きなさい。ひつじのうたを。虐げられるものの、喉の裏からかろうじて絞りだす、かなしみのメロディーを」
おとこは泣いていた。もうずっと、サトウさんのことが頭から離れなかった。
いちにちも、忘れたことはないはずだった。現に今も、こうしてわたしは生きながら死んでいるようなくるしみを、味わいつづけている。
「ゆるしてください、もう、ゆるしてください」
「おぼえているでしょう。ピンクの骨を」
ヒュッ と、からだから音がした。
全身から血の気が引いて、もうしんだと思った。わたしはだらだらと失禁して、のどは収縮して、息をすることができない。
ゆるしてください
「ゆ、ゆるして、ゆるしてください、ごめんなさい、ごめんなさ、もうしませんから、おえ、もうゆるしてください ゆるしてくださいゆるしてくだざ、なさい、ごめなさ」
目がじくじくあつくてスカートはつめたくて、全部の毛穴から液体をたれながしたわたしはたとえようのないほどみじめだった。
「おもいだせないの。ぜんぶ、なかったことになってゆくようなの」
ひたすら祈る。祈りかたなんて、とっくにわすれてしまったけれど。
なにもかも忘れてしまうわたしは、祈ることでしか、わたしを保つことができなかった。
「せんせい」
なにもかも、白くかすんでみえた。目の前の男でさえ、原型をとどめず、みんなうつくしい石膏のようにみえた。このせかいではわたしは、誰の支配もうけない創造者だった。
「ふかく息をすいなさい。そうして、きみがこうして愛犬にかわって生きながらえていることを悔いなさい。それでなにもかもがわかるようになったら、ここを去りなさい」
もうわたしにはなにもきこえなかった
耳を這うハエのおとさえ、せんせいの囁きにきこえた。
「先生」
わたし、色んなことがわからないけれど、たった一匹の犬に。せんせいの名前をつけたのはおぼえています。
そのいぬをわたしは、せんせいを、また わたしは、殺してしまったのです。
この世界からえいえんに、あとかたもなくしてしまったのです。
黒い雨がふっている。サトウさんは律儀に、わたしが忘れないようにしてくれる。あとかたもなくなったあとでも、彼は、やさしくて利口な犬だったから。
「ぼくがぬってあげるよ」
まっしろに これで ほら。忘れなくたって、なにもなかったさ。
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