短編「よいっぱりの追憶」
遠ざかる波の音をきいている。ときおり気づく港町の活気に、目を細めた。白く、うつくしかった家の於母影はもはやなく、わたしはその想い出だけをたよりにつめたい残骸に身を寄せていた。
つ、とせいけつなレンガに頬をあわせれば、みながよみがえる気がした。ここにはなにもない。ごう、と波が岩に打ちつけられる。何もないからこそ、わたしたちはまた出会えるのだと信じていた。
「……もう、わたしは、なまえすら」
ちゃんと声をださないと、おばあさんになってしまいますよ。母の声が聴こえた気がした。もう何年もからだの機能など停止してしまったのかもしれないと思いながら。
たくさんの人に会ってきたと思う。天は祈らなくてもわたしにうつくしい歌を授けたし、出会う生きものはみな澄んだかたちをしていた。わたしは、それに甘えていた。ただ商品の陳列棚にのせられたものをなんとなしに選びとるように、そういう残酷な選択を、わたしは無意識の中でもてあそんでいた。
左脚をうごかせば、パリリと壁紙だったそれが崩れる。まるでしんだ枯れ葉のようなそれは、絶望しながらわたしの肌を掠めた。目を開ければ空はみずみずしい群青色から燃えるような朱にかわり、わたしにやすらぎの終わりを告げていた。
「帰らないと」
きっと今日もわからない。わからない家を求めてさまようわたしは、さながら時の狭間にとりのこされた罪人のようだった。
指先の痛みに気づけば、だらだらと血がおちる。焦りや緊張より、なんてわたしの内蔵は健康なのだろうと思った。
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