短編「しずかな草原」


 しとしとと芝生にしずむ水の音がやけにリアルだった

 牛飼いのこむすめが芝刈から帰るのを感じると、わたしはそっと色のはげたサーフボードの裏に隠れる。
牛飼いのこむすめは静けさをまとっていて、まるで命がけのゲームだった。
それに呑まれないようにこの家のものたちは息をひそめている。

 わたしは、極めて正確にサーフボードになりきった。呼吸をこの家の空気の深いところであわせ、溶けこみ、わたしを消した。そうすればもう完全に、わたしはサーフボードだった。
いつしか共に呼吸を忘れてしまった世界の音が、次第にはっきりとしてくる。

 脆弱なリスがきのみをかじる音でわたしを取り戻したとき、もうこむすめはいなかった。

 外に出ると絵の具をうすくのばしたような空が広がっていた。現実味のない、どこか異国のようなスモーキーさで。

近くや遠くでは、何者かのささやきが聴こえる。耳をすましてみるとかんたんな小川の音にかわり、離せばまたささやきに戻った。まるでいたずらな山自身と会話しているような気分になった。

 ほかに何もふくまず、含む必要のない清潔なくうきはもはや誰のものでもなかった。
わたしのものでもなく、また空気さえもその権利を手放して、それはつかみどころもなく心地よさそうに伸びをした。

 大地と共に呼吸し、この地と空とを循環する水の流れにまかされた、天のとおりみち。
ほんとうに誰のものでもない、処女をまとった天のそれは、わたしのからだをすりぬける。
なにもつっかかりのないわたしを通りぬけ、そうして、また世界ととけあってゆく。

わたしは目を細める。ここにしかない幸せな温度をひそかにただ、かんじていた。

「くびをしめろ」

あたたかい手が まぶたをなでた気がした。
指のすき間からのぞけば紛れもないおひさまで、けらけらと笑った。

 じきにこむすめは戻ってくる。わたしはまたサーフボードに戻ろうと、草原をあとにした。


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