宵灯籠がにあうから


 昔あんなに悲しかったことが今わたしは思い出せない、というようなことが「キッチン」のあとがきで描かれていた。

 大きな悲しみも、時間が経てば悲しみの大きさは変わってしまう。悲しいことだと思っていた。それを吉本さんは美しいと説いた。限られた時間、過ぎ去ってしまう時間の稀有さとそれを知るものだけが感じられる許された美。ぴん、と張った湖の奥深く、しずかなとぼりの中でそれは輝く。宇宙で呼吸した者にしかわからない、あらゆるものの奥深い美。

 まだわからない、と思った。まだわたしには、過ぎ去ってゆくことそれ自体を綺麗だと、感傷もなしに分かるには若すぎる、と思った。幼いではなく。
 美しかったものを美しいと言いきれる自信がなかった。そんな恐ろしいこと、できてしまえば大人になる気がした。区別をつけることは、どんなことでも酷く恐ろしかった。

 忘れてゆくことを悲しいと、それしか思えなかったわたしに流し目を向けています。還れなかった月の使者に、お別れの宵灯籠をほおっています。今綺麗だと思うものも、いずれは醜くなるかもしれません。今醜いと思うものだって、100年後には目に入れても痛くないほどの赤ん坊に、ほら、なるのです。だから今はただ、こうして笑っていましょう。
変わることのない風景に、さびしかったテーブルクロスを足掛けて、届かなければ、また回せばよいのです。月の子供たちに賄賂を投げて、通りぐるまに駆け足をして、若さを捨てる頃にもう一度、分かるチャンスがくるのです。そうして息づいた静寂は、鼓動の神秘のなかにひとり還ってゆきます。

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