日記 *
ぼんやりしてたら1日が終わっていたみたいなことがよくある。もともとのんびりしててマイペースで、高校3年生くらいからそれがとくにぼんやりしてる気がする。
何がきっかけなのか忘れたけれど、本を意識して読みはじめたころかなと思う。文章の影響ってほんとに怖くて、自分もその思考に侵されていってるのにきづけない。
もとからわたしはこんな考えでしたよみたいに、しずかな世界に入りこんでしまう。
夜というのに弱い。よしもとばななの「白河夜船」や、小川洋子の「シュガータイム」なんかの夜の描写がとくにすき。
シュガータイムの中の一節、「カーテンを開けて月の光を中に入れると、部屋はうっすらと明るくなった。わたしはキッチンのあちこちの扉を開けて、秤とボウルとふるいとゴムべらを取り出した。何かにふれるたびに、びっくりするほど大きな音がした。この穏やかな夜がびりびりと破れてしまいそうで、胸がどきどきした。」というところは、夜の存在をぼんやりと浮き上がらせているように聴こえる。しんとして厳かなものさえ感じて、けれど何か不気味なものがひそんでいそうでわくわくする。こわいのは好き。(でもお化け屋敷はいやだ)
しんちゃんの金矛の勇者という映画のなかで、夜だけ世界がむらさきやグロテスクなピンクに包まれて、いつもの世界がおかしくなるというシーンがある。好きすぎてこのシーンだけ何回も巻き戻しては見ていた。歩道橋の下では魚が泳いでいた。
ふだんからこんなことを考えてるわけじゃないけど近い気はした。幼いころ穏やかなところで暮らしてたおかげで(暴走族はいた)、遊びとか感性の部分はまるで小学生から成長していなかった。
母は絵本がすきだったので幼稚園のときは1年で2000冊読み聞かせてくれていたし、(すごい)父はよく厳ついバイクに乗せてくれて(5歳とかだった)、遠い山とか峠とか、とにかくしらないところに連れていってくれた。父の口ぐせは「風のむくまま気の向くまま」とか「道はつながっている」とかで、大体いつも迷子になったけどほんとにどこかに繋がっているからおもしろいね。
高校に上がってもそんなのんきな感じで生きてきたから生徒会でこてんぱんにされた。
もう清算したことだからふれないけど、本気で殺されると思った。生徒会室に入るしばらく前から震えがとまらなくて大体23時には泣いていた。でも意地と根性で絶対辞めなかった。引退するとき、スピーチで大嫌いでしたって言おうと思った。けど大好きでしたっていった。なんでかわかんない。生徒会は大嫌いだったけど人のために働くことは好きだった。
なんか日記じゃなくなってきた。脱線しすぎてわすれてたけど日記には本を探しに行ったよって書こうとしてた。
おすすめしてもらったヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という本(霧と夜ってまちがえる)を探しにいってた。
なにも考えずにお店に行ったけど外国の人が著者だから探し方がわからなくて、歴史物とか外国人著者のところを見ていたりした。外国人著者のところは、アルプスの少女ハイジとかハリーポッターとか、よく知ってるタイトルがいておもしろかった。結局何軒か回ったけど見つからなかったから妹に漢字ドリルを2冊くらい買って帰った(怒られた)。
余談だけどみんな本って何時くらいによむの?わたしは昼とか全然よめなくて深夜0時から1時にかけてよんでるけど。うーん不規則!
たくさん本のことを書いたけどそんなに本が好きなわけじゃなくて、(映画もそんなに見れないな〜)音楽みたいに何も考えたくないときとか、思考をリセットしたいときに読んでる。新書とか自己啓発本(毛嫌いしてしまう)とか、教養を得るために読むのとはまた意味が違うんだろうと思う。
べつに読まなくてもしなないし頭が良くなるわけでもないけど逃げ場はふえる。って前誰かが言っていた。たしかに世界がふえるのはいいことだね。星の数ほど人はいるし。たくさんの価値観を知るたびわたしの輪郭がはっきりとしてくる。相対的な自己を描くよりもわたしひとりで完結する心をもってる。
でもどうしようってよく思う。大学に入ってから高校1年生のときに戻ってしまったみたいになる。退化してる(ほんとに焦ってる)。気をつけてるんだけど心をゆるした人の前とかって気が抜けちゃって楽しくなってしまって(なんていえばいいの?)戻るんだよね 全部、素に。
騙されるから仕事のときのあなたでいなさいっていわれたけど、でも、取り繕うくらいなら騙されたほうがいい。騙すより騙されたほうがずっとましって思う。だけど実際騙された時はショックでうごけなかった。変なの。
わたしのままでいいって言ってもらった時、泣くくらいうれしかった。
深夜2時になった。祈りは弱さじゃないっていってって泣いたら祈りは強さだよって言われたのを思いだす。わたしはまだ全然変われてないよ。
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