ゆるしてと燦々
さざめく夜路の端で生きた、ひつじがひとつ鳴く。うれしいような淋しいような、音を立てぬ夜。空気はぴんと張り、けれどなんら居心地の悪さはなく、それぞれがそれぞれを生きるせいせいと孤立した夜。
個々が自由に想うことで空は蒼く澄む。近かった空は望郷に広がる。目に見えないものたちがはらはらと散り、そしてわたしの住処になる。
一昨日、犬が消えた。嫌いではなかったけれど、座る時に後脚がカエルのように引き曲がるのが好きになれなかった、犬。
犬はわたしを見ると、はにかんで笑った。こちらが恥ずかしくなるほど、真摯な瞳をたたえて。
犬は笑う。もしもわたしが、あのカエルの脚を好きになれていたら、結果は変わっていたかしら。愛せないものでも自分のものとして受け入れていたら、どこまでも行けていたかしら。強い風が吹く。
眼を覚さないでといったのは君だった。そのままでいいといったのもきみだった。たくさんの君が代を越す。遠く白く霞んだ山脈。それをなお超えて、わたしから遠ざかる、過去の犬たち。それがそこなうことだとは、思えなかった。
現に名前をつけるから死ぬのだと、昔はわかれていた気がする。名前なんかつけなくても、わたしはわたしでいられたはずだった。それならどうして、公式のような名前しか覚えていない。形は忘れ、都合の良い「上手にお手をできた」犬たちが、キスをしては浮かんで消える。
あとかたの街。すべて跡形の街。もう赦されない人たちが自然にゆきつく、幽玄の墓場。
犬はほほえむ。わたしがなにもできなくても、ほほえんで施す。それが、愛せなかった。全て愛ですと言い訳をして、言いながら、後ずさっていた。直ぐ後ろはいつだって断崖であったのに。もうあと一歩引けていたら、きれいに身体を清算できていたさながら愚者のヴェールのように。
それでも犬はすり抜ける。撫でようとして、頭は半透明な空をきる。彼はわかっていた。わたしが何も愛でたくないこと。愛すことを淘汰して、けれど形のみの後生として、自らを撫でようとしている浅ましい心を。
「僕のことを、見ていましたか」
一匹の犬として。あなたは僕を受け入れていましたか。わたしは、ことばを発せられないまま、絶句。そして、いや、いいえ、いや、ええと、というような、愚鈍で惨めな嗚咽を溢しては、時が過ぎるのを待ちました。
まだ相手を傷つけてまで、自分に正直であることを捨てられませんでした。これは懺悔です。ほんとうの一匹の生きものを、わたしはほんとうの生きものとしては見ていなかった。ならば何として、何としてわたしは
ああ
「これほど明るくなにも持ちえない孤独があるだろうか」
犬はわらい、後脚で砂をかければ後には闇がしずかに揺れているだけ。
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2022.09.10 12:52
2022.09.09 14:21