短編「せいけつな罠」
晴れたある日のはらっぱは、これまでいちどもひどい目にあったことはありませんと言うような顔をしている。
一歩足を踏みだせば、蝶がかろやかに舞い、色とりどりの花はほほえみを返した。
みつばちも、せっせとはたらくアリさえ、ここでは豪華絢爛の宮殿の踊り子にみえた。
わたしは、幸運なことにそんな場所でしごとをしていた。ゼリーをうすく切って、ようかんにするしごとだった。青空の下でみずいろのパラソルと、えんじ色のキャンピングカーをつれていた。
それは言わずもがな、あの花があるせいだった。むしろあの花のために、ここで暮らしているといってもいいくらいだった。
それは、遠目からみてもはっきりとした主張をしていて、自分は高貴で由緒正しき花であると、みずから発信していた。
その赤はみごと空と対になり、他の花を確実に圧倒する力をもっていた。
わたしはそれに近づけなかった。
正していえば、近づかなかった。
そういう繊細で、氷よりも美しくて薔薇よりも刺があるものに、近づいてはわたしもその花も危ないと思った。だが近づきたいという欲求は奥底にあった。
そうして行く月が経ち、わたしと花は今日も正しい関係だった。
朝もやに包まれるなか出勤し、まず花に視線を送る。花は、返してくれる。わたしを、凛とした視線で見つめてくれる。
わたしは半ば緊張しながら作業を進める。チェリーレッドの固めのゼリーを、アルミでできた型に流し、色が変わったころにようかんにする。ようかんは、愛らしいと思えるくらいまでうすく切る。
なにごとも、ほどよい方が見栄えがいいだろうと思うせいだった。
夕方になれば店をとじ、少しばかりの売上はすぐに明日の材料代に消えた。
花は、依然として凛としていた。
遠くでぼおんと汽笛がなったあと、遅れて数秒、わたしの頭に反響してゆく。
遠ざかる波の音と、近づいてくる夜のしずけさが混ざりあっては溶解しきれずに、夕闇の中になびいた。
花はわたしの目の前にあった。
「は」と声がでた。考えるまもなく、パンと一本手を叩いたように夕が夜になった。
血の気が引く。一刻もここから立ち去らなければいけない。だが帰り道はすでにわからない。脳みそが端からだんだん引きぬかれていくような感覚だった。
こわい!
もうそれくらいしか考えられなくなったわたしの瞳は、まっすぐにあの花と対峙した。
わたしの正面には花があり、そして花の正面にはわたしがあった。
一瞬、花はゆがんだきがした。見てはいけないものを見た気がした。
一秒後、わたしはもうそこにいなかった。
もとのはらっぱに戻っていた。汽笛は消え去り、夜はそうそうに昼に席を譲り、かくれていた蝶はわがもの顔で宙を舞っていた。
花があった。
わたしを見ていた。
どうしてか今度は、近づいていいだろうという気持ちになった。もうなにも怖くないというようなかろやかで、凛々しくさえあるようなきもちがあった。
手をのばす。花はうつくしくほほえみを返し、ついに、と心は踊り、次に、花は自爆した。人間がしんだときみたいな音がした。
べっとりと濡れたおもちゃのような赤と真っ青な空が対照的で、あぁと思った。
わたしはヒッ、ヒッと声をあげながら失禁し、逃げた。
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