短編「ひつじのうた」


 弟がひつじになってからいく日も経っていなかった。

 数日前、教会で朝もやとともに枯葉を掃いていた弟は、玄関口でひつじになった。ビー玉のような瞳が、きらきらとゆれていた。
「わたしは」
そのとき、きっとすぐに抱きしめてあげたと思う。どんなおそろしいものが弟をひつじにしてしまっても、それは弟の内部に宿るかわいそうな心からくるものだとしっていたから。

「だけど…」

 ひつじはふえた。
あたりまえです、というような顔をして
毎日1匹ずつ丁寧にふえ、そして、古いものから減っていった。
どこからかやってきたというより、発生したという方が正しいような気がした。
弟は、依然澄んだ瞳のままだった。

 弟は、よく歌をうたった。協会のうらで、海辺の小屋で、晴れた日の草原で。
わたしはそれを、心のおくで聴いていた。とうめいな孤独が奏でるメロディーは、どうしてもここちがよかった。それを、罪だとは思わなかった。
汽笛が鳴る。
遠くの方でウミヘビが水に落下する音も、とちの木のつんざくような金切り声も、ちゃんと聴こえていた。

 10時。空はすでに暗く、ひつじの数はかわっていなかった。
なにがふえて、なにが減ったのか、考えるのはこわかった。

 ゆっくりと 窓枠のしみをかぞえる。
目をあけたまま、息を5秒かけて吸う。大丈夫、まだ、わかる。目を閉じた。
まだわたしは、弟がわかるはずだと、ひしゃげた心臓のうらでささやいた。

 暗闇のなかで、ひつじの1匹にふれた。
ひつじはなにもいわずにわたしを見たきがした。まるで鳴くことをしらないかのような 顔をしていた。

 目をひらくとひつじがたくさんいた。
みなみな等しく 無の顔をしていた。白を塗りつけたような平等さは、わたしをひどく凍えさせた。
弟は。
首が折れてしまいそうなほど、ぐるりとあたりをみまわした。みまわして、そうして、それで、わからなかった。
わたしはわたしの弟が、わからなくなっていた。

 絶叫した。
身のひきちぎれるような思いとは、まさにこのことだと直感した。おとうとは、今まさにこの瞬間も、わたしのことを見ているのに。
澄んだ瞳で、聴いているのに。

ふれた。なにかにふれて、それがおとうとじゃなくても、安心できる気がした。ひつじの顔はやさしく見えた。でも1秒後には、八百屋のおじさんになった。手ざわりはひどく乾燥していて、無精髭と赤黒く変色したニキビが、わたしの目を蝕んだ。

 次々にそれはかわった。もうおじさんではなく、またひつじに戻る。そうかと思えば、次はずんぐりと太った高校の女教師にかわった。そのあとは、死んだ叔母の顔だった。

 どれも全部、知った顔だった。なのにどうしても、わたしは弟をわかることができない。
ひつじは生まれては死ぬから。
なにかがうまれたら、なにかは忘れられるから。
なみだがでた。
夜はまるでいないかのようにしんとしていて、声を出すことすら はばまれた。
弟のうたは、もうきこえなかった。


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