短編「愚者のヴェール」
BJ夢
わたし、さいきん夢をみるの
おちるの、白いところへ
そうして、もどれなくなるの
狂いそうにしにそう、と思った。漠然とした不安は真っ暗闇なんかではなく、意識を向ければそれはただの空白でさえない、すきとおった無だった。
梅雨の季節と一体になったような心はただ遠くをぼんやりと見つめ、霧のかかった一隻の船を肌で感じる。
「……」
先生がなにか言っているようだったけれど聞こえなかった。この世のあらゆる微細なものたちが頭を塞いでしまったようで、視線が絡む。まばたきで切ったのはわたしだった。先生は呆れたように息をつき、リボンをゆるめながら部屋に戻ってゆく。女はよくなにがしたいのかわからないって言われるけれど、わたし自身ほんとうにそうだとおもった。昔使っていたポケベルの番号なんかを、右から思い出したりしていた。
わからなくてもいいと言ったのはLだった。あらゆるものは心で見ればいいと、教えてくれたのはLだった。けれど彼がいない今、わたしはどうして生きてゆけるだろう。どうやって色んなものをわかろうとしたらいいのだろう。カサリと手元が話す。わたしの身体の方が幾分もお喋りだと思った。首をおとしたまま目線を投げれば、手紙だった。きつく握られたそれはまるでアウシュヴィッツの収容所から送られたそれのようで、すべてが狂おしく歪みきっている。
たぶん、わたしが書いたのだ。何年あとでも先でも書いたのはいつだってわたししかいないのだ。ひらくことなく、力をこめずにそれはちりぢりになる。ひとかけらずつ、わたしは虫を1匹1匹つめの先で潰すように丁寧に裂いた。中身はどうせゆく宛のないラヴレターなのだ。まいにちまいにちわたしは飽きずにここで手紙を書くから。愛する人間のなかで、愛した人間に愛を語るから。
「またやってるのか、お前さんは」
背後から包まれれば、ぬくもりは着ているものすべてに染み渡ったようだった。けれどどうして、わたしの身体までは届いてくれない。
「せんせい」
「……中へ入りなさい」
「……いえ」
先生の目をみてすぐに、鉄格子の番人だと思う。頭ではわらってるのに、両の手でこの人を抱きしめてると思うのに、からだは動いてくれなかった。考えることを停止したようにただ手紙を破りつづけていた。破ってもなにをしても、時はもどらないのに。粉々に砕けたその残骸はほんとうに、素直な目をしているのに。
「……想い出など、清算すればいい」
「先生の、愛した人のようにですか」
「……」
先生も忘れられないのをしっていた。なのに強い言葉を選ぶのは、先生がわたしに自身を重ねているからだ。わたしをとおして惨めな人間をみているからだ。抱きしめる。先生が息をすうその前に、ふりむいて身体をうずめた。やはり抗いようのない絶望的な安心感がわたしを包んでいた。
「……うたってください、きれいな唄を」
「……唄は、きらいでね」
「先生にはきらいなものが多すぎます」
ほんとにね、と先生はわらった。かなしすぎる笑みで、わたしも心臓がゆっくりとつめたくなった。眉をよせても、涙はおちなかった。
「そんなつもりじゃ、ないの」
「わかってるよ。」
わかってる。確かめるように。どちらにも忘れることなく言いきかせるように。しわりとしたぬくもりはいつしかわたしに入りこみ、それを媒介したのはふたりの哀しみだった。なるほどわたしたちは本当に、くだらなく愚かな人間たちだった。きっと箱舟には乗せてもらえない。思うと、霧の濃さが増してつめたい空が頬をなでた。先生の顔は、よくみえない。
「……わたしには、そいつの代わりはできねぇのかい」
「できないわ」
ぽつり。なにをいうのよ。あなたはあなただわ。言わずに、つめたい石を飲みこむように、おさえた。言ったらなにもかも終わってしまいそうだった。先生の長い睫毛が伏せられるのにつられて、つられなくても、瞳をとじた。深い呼吸をして、まるで骸骨を抱いているようだと思った。
あなたはその手でいきものを切り裂くのに、同じいきものをこうしてあたためている。変だとは、思わないの。特定のものを愛して、愚かだとは、おもわないの。涙がでた。
つ、と静かにつたって、音もなくおちた。はたと先生のスラックスに染みをつくっては、鼻の奥が燃えるようにあつくなった。口の端が歪んでゆくのは、わたしの制御できないところにあった。
「……………せんせ」
「……なんだい」
「…………」
「……黙ってちゃぁ分からない」
フフフ、と父親のように声をなでた。今しゃべったら声がゆがむから、出せなくて、かなしくて、おしまいで、しばらくそうして鼻を鳴らすことしかできなかった。かろやかなメロディーはここに届くことなく街のなかで幸福な空間をうみだして、先生はこわくならないように上質な猫を撫でるようにわたしにふれていた。
「……教会に、いきませんか」
「……藪から棒に」
そこは綺麗に晴れていた。鬱屈としたふんいきが嘘のように、霧ひとつなく澄んだ空をしていた。きれいな一面の花にみとれて、わたしは海のような旋律をささやく。すべて嘘になるようなメロディーはまぶたを、頬をなでれば指先へとつたい、そして天に投げられた。
「先生わたし、しあわせです」
「そうかい」
嘘つきというような目でわたしを見た。先生はまっとうです。たぶんきっとそうなのです。でもわたしには、なにが正しいとか、もうよくわからないのです。
酔ったようにるらふらと踊り狂って、埋葬されるように倒れた。目のまえでさく花はかすかに息をしているようだった。
「いちご、もう帰ろう」
「どうして。こんなに綺麗なのに」
「何もないじゃないか」
なんにもないじゃないか。
恐ろしいほどやさしい声でいった。何を言っているのかわからなかった。先生の見ているものとわたしが見ている世界は、まったく違っているようだった。
「……せんせい」
「帰るんだ。さぁ、」
右手をつかまれて、けれどその腕はすぐさま鶏ガラのようにひからびて、すり抜けた。
「は」
あまりにうつくしいところだった。美しすぎて、ぜんぶ幻なんじゃないかと思うほどに。うたっていた唄の意味がわからなくなる。なにか羽虫のような音がすると思ったら、がらがらに錆びたわたしの声だった。
「え、る」
視点が激しくゆれる。まぎれもないLだった。まっしろな服はその背景ととけこむようにやわらかに揺れ、抱きとめるその腕はまるでせいけつなヴェールのよう。L。目が細められれば、出もしない涙がつたった。
「いちご」
「……L」
わたし、やっとあえたのね。事件は、もういいの?らいとくんは、どうなったの?首に絡むように語りかける。けれど声はかたちを忘れてしまったように一言も発されない。そういえばあの人は、先生はどこにいったんだろうと思いながらほほえむ。ふたりは天国の片隅で、このうえないほど幸福なキスをした。
「える……」
わたし、さいきん夢をみるの
おちるの、白いところへ
そうして、もどれなくなるの
こんどはちゃんと、おしえてね
もう わからなく、しないでね
「いちご……!!!!!!」
おちた。
やわらかな抱擁のあと、ほんとうに愛しいものに身を任せるように、それがあたりまえのようにきえた。
崖はほほえみ、あとには彼女の体温をおぼえたブラックジャック一人が残された。
からだごと清算してしまったのか。打ちつける波の音はレクイエムに似ていた。
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